内田氏の本はどれも面白いが、今回の本は非常にためになった。
彼は普通の人が考えるであろう思考から、さらに一歩踏み込んで思考を展開しているように感じる。
なるほどと思ったのは以下のとおり。
・「呪い」がjこれほどまでに瀰漫したのは、人々が自尊感情を満たされることを過剰に求め始めたからです。自己評価が高いということそのものは決して悪いことではありません。矜持を持つというのは人にとってたいせつなことです。適度な野心と適度な屈辱感(今に見ておれというかたちで)は向上心をもたらし、それが自己陶治の契機ともなります。問題は「適度な」というさじ加減です
・努力することへのインセンティブを傷つけるというのが社会的差別のもっとも邪悪かつ効果的な部分なのです
・「呪いの時代」をどう生き延びたらいいのか。それは生身の、具体て系な生活のうちに捉えられた、あまりぱっとしないこの「正味の自分」をこそ、真の主体としてあくまで維持し続けることです。「このようなもの」であり、「このようなものでしかない」自分を受け入れ、承認し、「このようなもの」にすぎないにもかかわらず、けなげに生きようとしている姿を「可憐」と思うこと。それが「祝福する」ということの本義だと思います。
呪いを解除する方法は祝福しかありません。
僕たちの時代にこれほど利己的で攻撃的なふるまいが増えたのは、人々があまりに愛しているからではありません。逆です。自分を愛するということがどういうことかを忘れてしまったせいです。僕たちはまず「自分を愛する」というのがどういうことかを思い出すところからもう一度始めるしかないと僕は思います
・「ある種の社会的立場」を他者から承認されたいという欲望が自我の中心にあって、それが身体ばかりでなく、思考も感情も、すべてを専制的に支配している。
つまり、現代人が自我の中心においている「自分らしさ」というのは、実はある種の欠如感、承認要求なのです。「私に対する評価はこんな低いものであってよいはずがない」というような、自分の正味の現実に対する身悶えするような違和感、乖離感、不充足感、それが「自分らしさ」の実体です
・彼らが「自分探し」というときに探しているのは実は「自分」ではない。彼らが探しているのは、彼らの欠如感、不充足感を充たしてくれるような他者です
・結婚が必要とするのは「他者と共生する力」です。よく理解もできないし、共感もできない他人と、それにもかかわらず生活を共にし、支え合い、慰め合うことができる、その能力は人間が共同体を営んでゆくときの基礎的な能力に通じていると僕は思います。
日本社会の深刻な問題は、他者との強雨性能力が劣化していることです。自分と価値観が違い、美意識が違い、生活習慣が違う他者を許容することのできない人が増えている
・他者との共生の基礎となるのは、実は「我がうちなる他者たち」との共生の経験なのだと僕は思います。僕自身の中にも「さもしい私」「邪悪な私」「卑劣な私」がいる。それなしでは僕は僕ではない。自分自身の中に或るさまざまな人格特性を許容できる人間は他者を許容できる。僕は自分を許すことのできる人間だけが他人を許せると考えています
・自分の中にある「理想的に自分らしいところ」以外のすべてを抑圧しようとする人の眼に、他者はほとんどが「おぞましいもの」として映ります。そのような人が他者と共生することはきわめて困難です
・自分に例外的に与えられた能力は、それを持たない人たちの役に立つように使うべきです。それを持たない人を見下したり、そのアドバンテージを利用して金儲けをするために使うものではない
・僕たちが決して見落とさないのは、「これは私宛のパーソナルなメッセージだ」と確信するものだからです。人間はいつでも「自分についての言及」に対してのセンサーだけは最大化させています。自分の評価についての聞き耳を立てている。それは僕たちが社会的動物である以上当然のことです。自分が属する社会において、自分はどのようなポジションにいるのか、自分自身を定位すること、それはきわめて優先性の高い仕事だからです
・村上春樹のインタビュー「いちばんいやだったのは、それまでなんでもなくつきあっていた人たちが、何か妙に離れていったり、よそよそしくなったり、あるいは逆のことが起きたり、そういうことがけっこうあったこと。そういう人間関係の変質みたいなものが、すごく辛かった。それは、僕にとっては大事なものだあったから」
・私が問いたいのは、世の中はバカばかりで、その指摘が正しいのだとすれば、そのような世の中を少しでも住みやすいものにするために、あなたは何をする気なのかということである。
自分を受け入れること、うちなる他者と共生することの大切さを知った。
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